「おもいでらんらんランドセル」という題でメモを書きました。
わたしのランドセルは母の手作りで、世界に一つしかないということを書きたかったからです。
そうしたら、別のことがするするっと出てきました。
父は何でも作ってくれる家のリーダー
恐くて優しくて頼れる人
母は小柄で風に飛びそうなほど華奢
好奇心の塊で新しいことに挑戦するのが大好き
ふつふつと書きたいことが湧き出てきます。
また (^_^*)
♪ おもいで らんらん[もくじ] - 那須高原のとっておき!
「おもいでらんらんランドセル」という題でメモを書きました。
わたしのランドセルは母の手作りで、世界に一つしかないということを書きたかったからです。
そうしたら、別のことがするするっと出てきました。
父は何でも作ってくれる家のリーダー
恐くて優しくて頼れる人
母は小柄で風に飛びそうなほど華奢
好奇心の塊で新しいことに挑戦するのが大好き
ふつふつと書きたいことが湧き出てきます。
また (^_^*)
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向こうから来て私とすれ違った母
その瞬間 私は母のこどもになりました
母は「これから若くなっていく通り道」のようです
前を向いて勢いよく歩いています
母は未来ではなく 今まで自分の歩いてきた道をどんどん若くなって進んでいます
私には気づかなかったみたい
「ときのとおり」を歩いて
いま私は 未来に向かっています
♪ おもいで らんらん[もくじ] - 那須高原のとっておき!
私がまだ幼稚園に通っているころ、親戚のケンタくんが私の家に住んでいたことがありました。私の2歳くらい下でした。
初めてケンタくんが来たのはもう暗くなる時間で、みんなでうどんの夕食を食べていたときです。
ケンタくんを連れてきた私の父が
「今日から一緒だよ」
と言い、母がうどんを小さい丼によそいました。明るい電灯の下でみんなでうどんを食べました。季節的には12月の初めころだったと思います。
『皆さんでどうぞ!』
という言葉とともに、ケンタくんのお父さんお母さんから、食べ物がたくさん入った箱を預かってきていました。
私は兄二人の下の妹なので、自分より年下の弟ができたことがすごく嬉しくて、翌日からケンタくんを従えて遊びました。ケンタくんはどこにでもついてきて、私と一緒のことをしました。
朝、私が幼稚園に出発するとき、ケンタくんは少し淋しそうでした。
“ 私は大きいからね! 幼稚園に行けるんだよ!”
と内心誇らしい気持ちでいっぱいでした。
雪の日、私は庭に出て、たくさん積もった雪に顔を埋め顔型が雪に残る遊びをしていました。ケンタくんはガラス戸の中からじっと見つめていました。
“ 私は大きいからね! 外に出られるんだよ!”
これまた内心、誇らしげでした。
ずいぶんとイヤなお姉ちゃんです。
兄たち二人は違いました。
ケンタくんは、
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
と呼んでは、
「それはなに?」
「これはどうするの?」
と、まだよく回らない舌で聞いていました。
黒目がちのクルクル光る瞳で問いかけるケンタくん。
髪が真っ黒で頭の真ん中あたりの毛が立っています。
兄のサンダルを小さい足で履いてズルズル歩き、転びそうになったりしていました。そのサンダルにはカタカナで『ワニ』と彫ってありました。兄が、友だちのワニさんという人からもらったサンダルだったからです。
ケンタくんは
「ワニだっ! ワニだっ! ワニのサンダル〜!」
と言って喜んで履いていました。
兄たちは相撲やレスリングをしたりしてケンタくんを仲間に入れていました。座敷の畳表が擦り切れるほどたくさん遊びました。作るのが大好きな兄たちは竹トンボを作ったり、缶ポックリを作ったりして一緒に遊びました。
どのくらいの期間だったか詳しくは覚えていませんが、ケンタくんは家の子でした。本当にかわいい弟でした。父も母もケンタくんを支えました。私はケンタくんが大好きでした。
後年、成長したケンタくんに尋ねると
「お姉ちゃんが大好きだった」
と言ってくれました。
ケンタの奴め!
あんなに小さいのにお父さんお母さんお兄さん妹さんと離れて、一生懸命生きていたのだと涙が込み上げます。
ケンタくん!!
シンデンさんは、父が勤めている会社の守衛さんです。
会社に遊びに行くと、守衛所の窓越しに
「よく来たね」
と、まん丸眼鏡で迎えてくれます。
門を抜けてまっすぐ進むと四つ角があり、右に曲がってしばらく歩くと父の働く長い棟があります。父の部屋へ行き、カラフルなアクリル板で出来た製品を眺めたり触ったりするのが私のお気に入りです。
「ほら、これはキズがあるからあげるよ」
まれに、出来損ないのアクリルの切れ端をもらうことがあります。それは全く“宝物”で、学校に持っていって自慢したものです。筆箱の中に入れ、取り出しては眺めていました。薄い黄色や黄緑色、ピンクや青の切れ端を太陽に透かすと、ノートや教科書に美しい色の影ができます。そのアクリルを固い板のところに当てて擦るといい匂いがします。
シンデンさんの住んでいる家は、会社の娯楽施設がある土地の中です。広い運動場の一隅に立つきれいな洋館で、橫に長い板壁には薄水色のペンキが塗ってあります。一階も二階も窓が規則的にいくつも並び、太陽が当たっているときなど、ホーッ!と息をしてしばらく眺めていました。
その二階建ての建物は私には夢のような家でした。小さい頃はシンデンさんの家だと思っていました。後になって考えると、シンデンさんは会社の守衛のほかにその建物の管理人もしていたのではないかと思われます。
シンデンさんの奥さんであるおばちゃんは、小柄な人でした。事故に遭った後遺症で体のあちこちが動かしにくいようでした。
私が遊びに行くと
「いらっしゃい。さぁ入って、入って!」
と大きな声で言ってくれました。よく笑いよく喋って歓待してくれました。
シンデンさんとおばちゃんは、私が小学校にあがるとき赤い透きとおった筆箱をプレゼントしてくれました。うれしかった私は大切に大切に使い、6年生になっても使っていました。
会社の新しいビルが神保町に出来たとき、シンデンさんはそこの守衛になりました。そして私の父も神保町が勤務先になりました。
私は高校生の頃、神保町の本屋街に行くたびビルの一角のシンデンさんの部屋にお邪魔して
「大きくなったねえ!」
の言葉を何度も聞いて一緒におしゃべりしたものです。
その後、お二人は会社を退職して別のところに住むようになったという知らせを受けました。遊びに行くと、いつも通り喜んで迎えてくれました。シンデンさんはお坊さんのように頭がツルツルで光っていました。てっぺんが少し尖ってもいました。おばちゃんは変わらず親切で元気でした。おじちゃんが食べ物をこぼすと、少し不自由な手でおじちゃんの口のまわりを拭いたり落ちた食べ物を拾ったりして世話をやいていました。
おじちゃんはずっと前から彫刻技能の資格を持っていました。勤めの休みの日に行くと、よくハンコを造っていました。度の強いメガネをして拡大鏡と照明の集まる手先に神経を集中し、細かい逆さ文字を彫っていました。退職してからはそれが主な仕事になったようです。父はシンデンさんに彫ってもらったハンコが自慢でした。
おばちゃんは、
「この頃ねぇ、寝ている時におじちゃんが息してないんじゃないかって心配になるの。だから手をね、こうして鼻の前に持っていっておじちゃんの息を確かめるのよ。それでね、あぁ良かった、息してたよって」
そんなことを話していました。
ずいぶんと時が経ち、お二人は亡くなられました。
掛け替えのない人たちでした。
毎年、毎年、
「変わり映えしないわねえ」
と言いながら、私の成長に合わせた白シャツのプレゼントをくださいました。それがどんなに便利で、いわゆるオシャレな贈り物であったか、今とてもよく分かります。
実は、シンデンさんが退職してから住んだ家の前を、今もよく通ります。
通るたびに、いつも暖かく迎えてくれたシンデンさんとおばちゃんと、小さかった私とを思い出します。