五目チャーハン
スープ付き
チャーシューが、ごろごろ。具が多い。
焼売
肉がたっぷり入っている。
大きめの焼売で食べ応えあり。
豚ヒレ肉の酢豚
酢豚とライス、サラダ・スープ・ザーサイの小鉢。
甘酸っぱいタレがご飯に合う。
「鈴」は、いつも美味しくて豊かな気持ちになる。
中国・四川料理 鈴 (まるすず会館内)
栃木県那須郡那須町高久甲5176
路上にて 【庭園に見えたら それは庭園】
大きい石(大きくはない)の配置がよく、小石は色もきれい。
もう、これは苔のある石庭。
私の高校は自由な雰囲気を持っていました。
修学旅行は、生徒たちで旅行委員会を作り訪問場所をいくつか選び、投票で決めました。
旅の三日目。船で湖を渡ったところのホテルが宿泊場所です。
それまでも雨が降っていましたが、夕飯を終えてお風呂に入ったころ突然嵐になりました。ひどい風雨が続き、「バチン!」と停電。
先生たちは大慌てだったと思います。走り回って点呼し、気をつけることを各部屋に伝え、一部屋に一本ずつ懐中電灯を配りました。
集合はしません。暗い中で全員が動く方が危険だと判断したのでしょう。
長い夜。部屋には3人。
私たちはその出来事を結構楽しんでいました。
「何をしよう?」
トランプとかの遊び道具は用意していましたが、何しろ懐中電灯一本しかないし、もちろんLEDではありません。
先生に
「寄せ集めの懐中電灯だから、何時間保つかわからない。無駄に使わないこと」
と言われていました。
考えたのは “服をいっぱい着て変な顔をして写真を撮る” です。
私の学校には制服がありません。だから思い思いの服を持ってきていました。3人が持ってきた服、帽子、靴下、バッグなどを出して、並べました。
二人が指示を出し、餌食の一人が従います。
「セーターとジャケットを着てください」
「それから、パジャマのボタンをキッツキッツにはめて、帽子を二つかぶってください」
「その上からスカーフを巻いて残りを前に垂らして」
「手にはロング靴下を……」
というような命令をします。
写真を撮るときは、
「懐中電灯を顎の下に当ててください」
「あらぬ方向を見据えてください」
とか。
暗い中でさまざまな指示に従い服を身につけ懐中電灯で確認し、「オッケー」となったらシャッターを切ります。
代わる代わるにやっていると、心臓がドックドックしてきます。
外も内も真っ暗。
カメラのフラッシュに照らされた瞬間、その全部が窓ガラスに写ります。
その表情、その姿。窓の外の大きな木の影も見えました。
鮮明な静止画像がまぶたの裏に残り、3人の大笑いが響きます。恐ろしくも可笑しくて、時の経つのを忘れました。
そういえば私たちの部屋は、本廊下を右に曲がったところで、一部屋だけ離れのような造りでした。
「私たちの結婚式の時、絶対にこの写真を持ってこないこと!」
と、真剣に誓いを立てました。
翌日は、ほとんど乾き物の朝食です。
この日はバスを使う予定でしたが、通る道が土砂崩れで不通になってしまいました。
先生方は、ホテルの人たちや関係のところと夜通し検討したのでしょう。道路開通までどれだけ時間がかかるか分からないので、船を使うことになりました。
ホテルの方たちがみんな見送りに来て、色とりどりの紙テープを渡してくれました。
乗船してからそれぞれが桟橋に向かってテープを投げました。私が投げたテープが運良く私たちの部屋担当の方に届きました。着物の似合う方です。
私はこのテープの切れ端を持ち帰り、宝箱にしまいました。
後で、大変な旅を支えてくださったホテルにお礼の手紙を書き、紙テープの半分を同封しました。そして、丁寧な返事もいただきました。
「旅行は無事がいい」と考えていた私。
ある旅行のときの添乗員は、優れた統率力があり自らも旅を楽しんでいる人でした。
その人が、
「何かあるから旅は面白い。思うように行かないとき、『さぁ〜、来た来た! 旅はこれでなくっちゃ』と思う」
と言いました。6歳のお子さんがいる女性です。
旅行中、さまざまなことに出会うたびにこの添乗員の言葉を思い出します。
○ 普通の機種が間に合わないので、軍用機に乗ることになりそうだという旅。
『兵士が乗るためのものだから座席なんか無い。床にベルトが付いているだけだ!』
という噂が飛び交いました。
○ 「部屋と窓の鍵は必ず閉めなさい。とても危険だから!」
と指示されました。しかし、季節外れの高温でどうしても我慢できなくなり、外開きドアと窓を開けて風を通し、動かせる家具などをドアのあったところに積み上げてバリケードを作って凌いだ夜。
深夜。開けていたドアの辺りををドンドンドンと激しく叩く音。
『何事!』
と身構えたら、バリケードを抜けてチャリーンと金属音。静かになってから確認すると、部屋の鍵が室内に落ちていました。
鍵をドア穴に入れっぱなしにしていた大マヌケ!
○ 大事件の直後に行った街では、何かを燃やした大きな山塊からまだ揺らめく炎が出ていました。道路にはキャタピラの跡。兵士たちが銃を持って行進したり、道の角ごとに立哨しているすぐそばを、『帰りたい、無事に帰りたい』と心で唱えながら通った旅。
○ 彗星を観測する旅では見事に高山病にかかり、車の中で酸素ボンベのお世話になりました。
○ 別の天体観測の旅では、夢中になって写真を撮っていたら集合時刻をオーバーし、乗るはずのバスはもういません。本当に真っ暗でディンゴたちの潜む中、探し回ってようやく別のバスを見つけ無理やり頼み込んで乗せてもらいました。
あのまま、あの暗闇に残されていたら。
危険なことや恐ろしいことに出逢うのは、遠慮したいけれど……、
何かがあった旅は思い出が深いです。
母は和服が好きでした。
そして、洋裁よりも和裁の方が好きだったと思います。
暮れのバタバタが済んだ夜、箪笥の特別の段から着物の入った細長い箱を取り出します。蓋を開けると、たとう紙が現れます。そこには筆文字で「御誂」と書いてあります。金銀の模様が「御誂」の文字を飾っています。
それは母が縫ったのではなく、呉服屋さんに頼んで作ったものでした。二カ所結んである紐をほどくと中から着物登場です。衣紋掛けにていねいに掛けます。
身につけるいろいろを取り出し乱れ籠に置きます。
・帯・足袋・帯締め・帯枕
大物小物が次々と並んでいくのを眺めていました。
お正月への期待が膨らむ時間です。
翌朝。
家族が畳に手をついて
「おめでとうございます」
と、挨拶するときに見える母の襟や袖や帯がきれいでした。
袖をちょっと抑えてお皿を配る仕草も優雅に見えました。
母は、お正月の幾日かは着物で過ごしました。改まった感じがして私は嬉しかったです。
学校に上がる前は、母のお琴の稽古について行きました。お師匠さんもお弟子さんも着物を着ていました。
🎶 シャッテンシャシャツントテツーン 🎶
と歌うのを覚えました。
中学の頃、
「浴衣を縫いたいから教えて?」
と母にお願いしました。
選んだ模様は白地に朝顔の花が散りばめてありました。
長い生地のどこをどこに使うか決め、チャコペンで印をつけます。全て直線なので、びっくりです。なんてうまく生地を使うのでしょう。
「切ってしまったらもう元に戻らない。少なくとも三回は『これでいいか』を確かめてから切りなさい」
緊張の裁断!
ですが、曲線はないから切ると決めたら早いものです。
・キセかけ・おはしょり・くけ・仕付け
・ルレット・糸こき・柄合わせ
・剣先・おくみ・身八つ口
新しいことばかり。袖の丸みは何回も縫って絞ってを繰り返し、平らにしていきました。
仕上がってみると、どうしてそうしたのかが分かり、
「なるほど!」
と深く納得しました。
夏が来るまでに……と、頑張りました。
手縫いのやさしい仕立てだから、着るとすぐ布が体に馴染んだ気がしました。
母はみんなの着物も縫いました。
3歳くらいのときの私の着物は写真でしか覚えていません。同じ布でバッグも縫ってくれました。小学生のときは明るい青紫の地にオレンジと黄色の花柄でした。道行も縫ってくれて、胸の飾り紐がとても気に入りました。
高校は絣模様でした。
絣の着物で大学の講義を受けたことがありました。
その頃、よく一緒に話していた人が今も隣にいます!
♪ おもいで らんらん[もくじ] - 那須高原のとっておき!
美しい藍色。
よくわからないのだが、「型紙摺り陶片」みたい。
直線が点線のようになっているのが特徴。
作ってから100年くらい経っているものが多いらしい。
湯飲み茶碗の欠片。
潮に洗われて、なお鮮やか。
中学2年ごろ、初めて自分の部屋と自分の机を持ちました。
「部屋」と言ってもとても小さく、一畳の広さもありません。座敷に付いている「床の間」部分だったからです。
座敷より10センチくらい高い床でした。
座敷側から見て左側に木製の机。その場所ジャストサイズの板に四本脚がついたもの。父の手作りです。引き出しも何もありません。背もたれのついた椅子は誰かからいただきました。
父が棚も作ってくれました。座敷から見て正面高いところに、壁から壁まで一間弱の長い棚。右側の壁には短い棚が三段あり、考えたより多量の物を収納できます。
棚はベニヤだったので、家族からは「ベニヤの娘」と呼ばれました。
床の間と座敷との境には色の薄いブルーのカーテンをつけました。
とても寝ることなどできない「部屋」でした。それでも、カーテンを閉めスタンドをつけると「室内」に薄青の色が広がって、
「わあ、私の部屋だ!』
と嬉しくなりました。
大学に入ったころ、兄たちが巣立ったので少し広い部屋をもらいました。
父が働いていた会社では、いらなくなったたくさんの机を欲しい人に分けてくれました。もしかしたら少しお金を払ったのかもしれません。
木製で上から下までの引き出しが両サイドついていて、中央には横長の広い引き出し。そして机の下部には球形のしっかりした脚が四つ。
急に役職についた気分でした。
全体が暗緑色に塗られていて、非常に重い机でした。引き出しのついた机は初めてだったし、椅子も肘掛け付きで気に入りました。長い間会社で使っていたので天板が少し反っていて鉛筆など丸いものは転がります。
しかし、天板の周囲はぐるりと別の板で囲んであり、その境に5〜6ミリの溝があったので、転がったものはそこでストップしました。
引き出しの1段目は文房具、2段目は教科書、というふうに楽しんで入れていました。3段目は深かったので、手前に大きい書類、奥にちょっとした背の高いもの。
真ん中の広い引き出しは、箱で区切ってたくさん収納しました。引き出し部分も天板と同じで歪みがあり、出すも引くも軋み、時々は引っかかって開かなくなりました。その軋みも引っかかりも含めて大好きな机でした。
考えてみれば父も母も自分の机を持っていません。書く必要がある時は食卓を使いました。
個人の机が持てるというのはずいぶん幸せなのだと思います。