(47)「『交換ノート』の相手」
チーちゃんとは幼稚園が一緒でした。近くに住んでいたので、チーちゃんの弟や妹とも遊びました。小学校に入る前、チーちゃんの家は引っ越しをしました。私は、それきりチーちゃんのことを忘れました。
ところが、高校生になってバッタリ出会ったのです。
しかも同じクラス!
私は大きくなるにつれ、だんだん人に話しかけるのが苦手な人間になっていました。ほとんど誰も知らない人ばかりの高校生活が始まり、さらに人見知りの強さが増していました。
そこへチーちゃん登場です。約10年振りの再会でした。
地獄に仏……は、大袈裟ですが光が射したように感じました。
学校帰りは一緒に駅までの道を歩きました。うまいことにチーちゃんのおばあちゃんの家が通り道にあったのです。疲れたねと言っては寄り、お腹が空いたと言っては寄り、何の理由もなく寄りました。おばあちゃんはおやつとお茶でもてなしてくれました。陽の当たる静かな座敷でゆっくりしました。
帰る時、おばあちゃんはいつも門のところで、
「お大事にしてね」
と送り出してくれます。お大事にという言葉は病気の時に使うと思っていた私は、さよならの後、おばあちゃんには後ろ向きのまま笑ってしまいます。チーちゃんもこっそり笑って、
「ずっとそう言うのよ。慣れちゃったけど」
と言いました。
それからは、具合の悪い人に「お大事に!」と声をかけるとき、おばあちゃんの声が重なって聞こえます。
チーちゃんのお父さんは社長さんでした。工場の敷地内に家がありました。だんだん建て増していった家だから、中は迷路でした。あっちの階段を上り、こっちの階段を下り、そこの階段を上るとチーちゃんの部屋に行き着くのです。
兄弟姉妹が四人いたチーちゃんは一番年上で、弟や妹もみんな別々の部屋を持っていました。机とベッドと小さい窓。窓からは工場が見えます。狭いけれど楽しいチーちゃんの部屋!
姉・弟・妹・弟の頭文字を取って「○△□◇会」という名称の「会」がありました。その名前で看板を作り、部屋のドアにぶら下げてありました。兄弟姉妹の会を開く小さい部屋は、木製のテーブルとベンチを並べるともう歩く隙間はありません。
「お寿司をたべたいから、どうやっておねだりするか」
などが議題だそうです。
私の家にはおねだり文化(?)がなかったので、びっくりでした。
チーちゃんは私の家にもよく来て泊まり、夜中まで喋っては母に
「もう遅いよ」
と注意されたりしました。
一緒に勉強もしたし、遊びにも出かけ、交換ノートもしました。
チーちゃんは字がきれいで、その上、絵が上手でした。チーちゃんからのノートには必ず色鉛筆で彩色したイラストが付いていました。一冊のリングノートを表紙と裏表紙はそのままで、中のノート部分をハサミでバッサリふたつに分けました。右が私の分で左がチーちゃんの分。
薄緑の固い表紙が付いたノート
イラストが綺麗なノート
高校を卒業するときに表紙とリングを切り分けて、それぞれ相手の分を持ちました。
私も引っ越しをして、チーちゃんはとても遠くへ引っ越しをしました。
会えないけれど・・・
交換ノートのページを繰るたび、あの頃に旅が出来ます。
「もう一つの交換ノート」
高校時代、同じ教室を定時制の人も使っていました。私の机の中には、時々ノートの置き忘れがありました。数学であったり、物理であったり。ノートをパラパラめくりながらどんな人かなと考えました。
ある日、私もノートを置いてみました。新しく買ったメモ帳のようなものです。そこに、『あなたはだれですか?』と書きました。
返事が来ました。
『君はだれですか?』
その人は働いていました。職場を他の人より早く終わりにして、学校に来るのだそうです。ご飯を食べる時間がないときは、お腹が空きすぎて困っているとありました。私の知らない世界でした。
昼間の生徒は、お昼に近くのラーメン屋さんに行くのが人気でした。
交差点を渡って東に50メートルくらいのところです。男子は家から持ってきたお弁当を早弁し、昼はラーメン屋に駆けて行きました。時々、私もチーちゃんと行きました。急がないと午後の授業に間に合わないので、超特急で食べました。あのラーメンに勝る美味しいラーメンは思い出せません。
ざわざわした登校時の教室。
窓から2列目、前から5番目の机に向かって歩くとき、
今日はノートあるかな
なんて書いてあるかな
と、想い廻らせたあの日。
『昼の生徒は、ロッカーがあっていいです。夜はロッカーなしです』
と、書いてありました。
『仕事が変わるかも……』という言葉に私が返事をしたのを最後に、交換ノートはパッタリ途絶えました。
同じ教室、同じ机、同じ椅子に座っていても、違う世界にいる人でした。
一度も会うことはありませんでした。現実にいる人なのに、ふわふわとした透明な存在でした。
そう……、
ノートはその人が持っている番でした。