夏の殺生石

那須 温泉神社(ゆぜんじんじゃ)

創建

第三十四代舒明天皇の御代、湯本より南方約八キロメートルの茗荷沢村の住人、狩ノ三郎行広は、小牛ほどの白鹿を追い求め矢傷を負わせてなおも追い続けて雪不尽山(那須岳)の麓、霧生谷(元湯付近)に至った。 濃霧に包まれ白鹿を見失い呆然として佇んでいるとき、岩上に白髪の老翁あらわれ、「吾は温泉の神なり、汝の求める鹿はかの谷間の温泉に浴しておれり,その温泉は万病をなおして甚だ効あり。鹿の浴するも手負いを癒さんがためなり、汝よろしく之を聞きて万民の病苦を救うべし」 と言い終わりて消え去る。三郎白鹿を射止め、温泉を発見して神社を建立し歳時の祭礼怠りなく崇敬の誠をつくしたと言う。これが本神社の創建である。

那須温泉神社 公式ホームページ)

 

 

 

「史跡 殺生石

標柱の左にぱっかり割れて薄茶の中身を見せている。

2022年3月5日に割れているのが発見されてから、約1年半。

 

 

 

殺生石の由来

 昔、中国やインドで美しい女性に化けて悪行を重ねていた白面金毛九尾(はくめんきんもうきゅうび)の狐が今から800年程前日本に渡来しました。九尾の狐は「玉藻の前」と名乗って朝廷に仕え、日本国を亡ぼそうとしていました。
 しかし、陰陽師阿倍泰成に正体を見破られると、狐は那須野が原まで逃げて来ました。ここでも狐は悪さを繰り返していたので、朝廷は、三浦介、上総介の両名に命じ、遂に九尾の狐を退治しました。
 すると、九尾の狐の姿は毒石になり毒気を放ち始め、近づく人や獣を殺し続けました。
 これを伝え聞いた泉渓寺の源翁和尚が毒石に向かって大乗経をあげ続けると 一筋の白煙とともに玉藻の前の姿が現れ、石は三つに割れて飛び散り、一つがここに残りました。
 それ以来、人々はその石を殺生石と呼ぶようになり、今に伝えられています。

  那須町  

 

 

 

殺生石周辺案内

 

 

 

教傅地獄の由来

 第九十六代後醍醐天皇(1318年)の御代、奥州白河在の五箇村蓮華寺という寺があり「教傅(きょうでん)」と言う小坊主がおりました。
 この教傅は生まれながらの悪童で、心配した母がこの寺に預かってもらうことにしたのでした。
 その教傅も二十八歳になって、前の住職の跡を継ぎ、母と一緒に寺に住むようになりましたが、その行いは少しも直りませんでした。
 延元元年(1336年)のことです。教傅は二、三人の友人と一緒に、那須温泉に湯治に行くことになりました。その日のことです。母が用意した朝食を、教傅は、まだ旅支度も出来ていないのにと悪口を言いながら、蹴飛ばして、そのまま出発してしまいました。
 那須温泉に着いた教傅達は殺生石を見学しようと賽の河原付近まで行くと、今まで晴れわたっていた空がにわかに掻き曇り、雷鳴が天地を揺るがし、大地から火炎熱湯が噴き出しました。
 連れの友人は一斉に逃げ去りましたが、教傅は一歩も動くことが出来ませんでした。友人が振り向いて見ると「おれは母の用意したお膳を足蹴りにして来た天罰をうけ、火の海の地獄に堕ちて行く」と、大声をあげ苦しみもがいております。友人が駆け寄り助けようと引き出しましたが、教傅の腰から下は炭のように焼けただれており息を引き取ってしまいました。
 それからも教傅の引き込まれたところには泥流がブツブツと沸いていましたが、いつしか山津波に埋まってしまった。
 その後、湯本温泉の有志が享保五年(1720)に地蔵を建立して供養を行いましたが、親不孝の戒めとして、参拝する者が後を断たなかったということです。なお現在の地蔵は、昭和五十七年に建立されたものです。

    那須観光商工課 那須町観光協会

 

 

 

千体地蔵

 

 

賽の河原

あの世に行く途中にある河原。

今日はお盆。